アメリカ大統領選のさなかに「市民」について考える

どうもシャオムです。

昨日はアメリカ大統領選でしたね。昨日の昼間がアメリカ時間の夜だったので、初めてワイドショーを一生懸命見ていました。まだ完全にはどちらが勝ったともいえない状況であり、今後の混乱は避けられなくなってきています。今回は、アメリカ大統領選を受けて考えたことを書いてみたいと思います。

僕はドナルド・トランプが大統領になってから、アメリカで起きた人々の分断を悲しく思っていました。それは、僕が置かれた環境による影響が大きいと思います。トランプが再選されれば、人から人への憎悪や偏見がますます深まるのではないか。これが、選挙を前にした率直な気持ちでした。

ただ、自分がアクセスできる限られた情報からでも、事情はそう簡単なものではないことがわかります。アメリカには僕と同じように悲しい思いをしている人や、トランプによって不利益を被っている人がいる一方で、トランプによる政治を求める人々が同じくらいの数いるのです。

報道を見ていて、アメリカにどうなってほしいか、世界にどうなってほしいかと考えてみたときに、本質的な問題は、どちらの候補が選ばれるのかではなく、なぜ政治を通して人々が分断されるのかということだとわかりました。それは、選挙がほぼ完全に、人々の利害の反映になっているからであり、多数派の利害が優先されるという構造が、政治の宿命だからです。この構造が変わらない限り、トランプが選ばれようが、バイデンが選ばれようが、確実に半数の「損する人々」が生まれてしまうのです。

したがって、トランプまたはバイデンが、個人の力によってアメリカを良くしてくれるということは現実ではないのです。アメリカを良くしてくれるリーダーを選ぶ選挙ではなく、どちらの利益を優先させるかの選挙なのです。これでは大統領選は、選挙というよりも、さながらゲームと言った方がもっともらしいです。

やはり、利害を乗り越えて、分断を乗り越えて、社会のためのリーダーを選ぶ選挙を実現するためには、市民が賢くなるしかないなあと思います。市民が賢くなるとは、自分たちの利益のために政治家を選ぶのではなく、社会のための政治家を選ぶということです。結局こうやって市民が他人について考えられないのでは、選挙で負けた方の人々が損をするという構造は変わらないのです。市民が自分の利益だけでなく、社会の利益を優先するようになるならば、政治家も特定の集団ではなく、社会全体のための政治をせざるをえないからです。

短くも煩雑な議論にはなりますが、今回考えたのは、政治の問題は要するに市民の問題であるということです。市民がどう変わるかということ抜きにして、より良い政治、より良い社会は望めない。これが、今回の選挙で確認したことでした。

 

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