男女平等がなぜややこしいか

どうもシャオムです。

妹が、大学で「ジェンダーと教育」の授業をとっているらしく、これまたわけのわからない論文を読んでいました。ちょっと読んでみると、ジェンダーをどう捉えるのかについて示唆的なことが書いてあったので、少し考えてみたいと思います。

いま、男女平等という理念のもとで、世の中は、すべての人が性別に関係なく活躍できる社会という方向へ進んでいると思います。性別による差別や、差別と言わないまでも性別で人を評価するような態度に対しては、世間の目は厳しくなりつつあります。これを、少し前までは、「ジェンダー・フリー」とか「ジェンダーニュートラル」という言葉で表現していました。要するに、性別に関係なく、すべての人を平等に扱っていこうということです。

しかし、このジェンダー・フリーの理念には、一つの大きな問題があります。たとえば、こんな例を考えてみてください。

現状、日本の国務大臣の9割は男性である。制度上、全体の半分を女性から選ぶようにするべきかどうか。

ジェンダー・フリーの考え方でいくと、おそらく答えはノーとなります。なぜなら、男女には、同じだけの機会が与えられているのだから、女性だからといって、大臣のポストにつけるよう優遇するべきではない。大臣に男性が多いのは、性別に関係なく適切な人物を選んだら、結果的に男性の方が多くなっているだけである。これは、実際に今の世の中で、かなり多くの人が支持している論理ではないかと思っています。要するに、理念において、また法において、機会は平等になったのだから、あとは自己責任だという考え方です。

このようなジェンダー・フリーの考え方にはどんな問題が潜んでいるでしょうか。もしも社会が、男女を完全に均質に扱うならば、男女の間に歴然と存在する、生物学的な違いを無視することになります。これを完全に無視するということは、極端にいえば、オリンピックの100メートル走を男女ごちゃ混ぜにするようなものです。男女の区別を完全になくす考え方には、一定の無理があることは、想像できると思います。

さらには、生物学的な違いだけではなく、社会が今まで作り上げてきた性に対するイメージというものが存在します。たとえば、伝統的にはどこの世界でも、「政治は男性がやるもの」という規範がありました。このような事情を無視して、女性でも大臣になれる権利があるのだから、なれないのは自分の責任ということはできるでしょうか。機会均等は、単に門戸を開いたにすぎず、「政治にはもっと女性が必要なのかどうか」という議論をすっ飛ばしているのです。つまり、性別を無視するということは、今までのジェンダー観がもとで起こっている問題をそのまま放置するということにもつながるのです。

このように考えると、男女の平等という問題は、一筋縄ではいかない複雑さをはらんでいることがわかります。同じように人権や平等への意識が高い人の間にも、ジェンダーに対する見解は分かれるものと思われます。個人的には、一人一人の生き方は、性別に縛られてもいけないし、性別を無視されるべきでもないと思っています。同じ権利が与えられているということも重要ですが、実質的に、人間が性別によって制限されることなく、その人らしく自由に生きていけることこそが、軸となるべき考え方なのではないかと思います。

f:id:honmadesukate:20200710151723j:plain