コーチング理論の落とし穴

どうもシャオムです。

昨日の記事で、コーチングについて書きました。クライアントの内面性を引き出すコーチングは、時代の流れに合ったかかわり方であるというのが、大体の話でした。コーチングの理論を社員に学ばせる会社や、教育機関も多くなっているのではないかと思います。

今回は、そんなコーチングの理論を通して、このような「理論」がもたらす弊害を考えてみたいと思います。

コーチングの理論そのものは、人間の内発性というものに注目して生まれたものであると想像できます。従来のような力で教え込むやり方や、体で覚えさせるというような根性論では、誰でもが成長できるわけではないという事情があります。だからコーチングの理論は、「教える」ことを中心にする「ティーチング」に比べて、より人間的な教育のアプローチだということができます。

しかし、どんな理論であれ、それが流行するときには、理論自体がひとり歩きしがちです。コーチングの理論は、たしかに人間的な色を帯びています。しかし、教育や育成という、本来きわめて人間的な、言い換えればアナログなコミュニケーションに、「こうすればうまくいく」というような理論を当てはめることに、私たちは注意深くなければなりません。コーチングの根本的な発想に関係なく、それが流行りのように受け入れられるとき、概念やスキルばかりが注目され、肝心の「人間」が見失われるということは容易に想像できます。

そもそも、コーチングの考え方自体、それを実行するのは並大抵のことではありません。コーチングは、クライアントに対する「傾聴」や「承認」を重視しますが、これは、一つの捉え方では、相手が何を言おうと自分の感情を脇に置いて受け入れるということです。たしかに、コーチがそれを実行できれば、大きな効果をあげることが想像できますが、現実にそれができるでしょうか。本来、それはかなりの忍耐や愛情を伴わなければできないコミュニケーションではないでしょうか。理論はその大変さを教えてくれませんし、どうすればそんな忍耐や愛情を持てるのかという問題には答えてくれません。その点が無視され、理論だけがひとり歩きすれば、「承認」や「傾聴」といった気高い考え方も、文字面だけで認知され、「とりあえず褒める」や「とりあえず聴いておけばいい」というような、心を伴わない技に変わりかねません。

コーチングのみならず、私たちは理論というものを取り扱うときには注意すべきです。理論は便利であり、アイデアを社会の仕組みに取り入れるのに役立ちます。しかし、理論に従えばうまくいくと考えるのは安易すぎます。ましてや、社会科学の理論は、常に変化する人間というものに関するものですから、理論自体を振りかざして問題を解決しようとするのは少々乱暴です。理論はあくまで思考をしやすくするためのヒントとして、また人に考えを伝達するための媒体として考える方が、安全といえるかもしれません。

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