差別に対してどう向き合うか

どうもシャオムです。

東京オリ・パラ組織委員会森喜朗会長が、「女性の多い会議は時間がかかる」と発言した問題ですが、結局は森氏が辞任する方向のようです。必然的に、次の会長が誰になるのかに関心が高まるのですが、これがまだはっきりしないようです。この問題に関して、さまざまな人たちの発信を見ていると、引っかかるところがけっこうありました。

昨日、オリンピックの選手村村長に決まっていた川淵三郎氏を会長に推す声があるとの報道が出ており、それに対して疑問や反対の声が見受けられました。森氏が83歳なのに対して川淵氏は84歳であり、「そんな高齢の人を会長にしても変わらない」という意見が少なからずあります。

これは僕の中では深刻な問題なのではないかと思います。なぜなら、「高齢」とか「高齢男性」であることを理由に、会長就任を問題視するのであれば、「女性」の多い会議は時間がかかると発言するのと根本的には同じだと思うからです。どちらも、個人ではなく属性を根拠にして物事を判断していることには変わりありません。もし、「高齢の会長はダメ」がまかり通ってしまえば、女性差別の時代から高齢者差別の時代に移り変わるのみです。

森氏自身が「老害」という言葉を使っていたように、あの発言の問題点は、単に「時代にそぐわないからアウト」と捉えるような風潮があります。そうではなく、特定の属性を持つ人たちの尊厳を傷つけているということが問題なのです。この点をよく考えておかないと、結局また違う種類の人たちへの差別が生み出されるだけです。

差別に対する私たちの心構えは、どのようであるべきでしょうか。今は、50年前に比べると、明らかに女性への差別が問題視される世の中であると言えます。しかし、差別は今になって始まったことではなく、差別され嫌な思いをしていた人は確かに存在していたはずです。であるなら、今は社会的に問題とされていなくても、差別されていると感じている人がいるかもしれません。そして、社会が差別に対して無頓着なら、普通に生きていても差別が起こっていることに気づかない場合もあるでしょう。したがって、私たちは、特定の属性や性質を根拠に他者にレッテルを貼ること、属性を根拠に判断して人を扱うこと、差別的と受け取られるかもしれない考え方をすることに対しては、どんなに慎重になってもなりすぎることはありません。このように、常に自分は誰かを差別するかもしれないという前提に立ち、日々差別的な言葉や考え方を排除していく姿勢こそ、重要でしょう。「差別をする人は許さない」ことももちろん大切ですが、「自分が差別をしないようにしよう」という心構えが何よりも必要なのではないでしょうか。

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