受験の最大の弊害は

どうもシャオムです。

前回の記事で、一発勝負の受験のメリットとデメリットを考えました。今回は、受験のやり方の違いについてではなく、受験そのものがどんな機能を持っているかに焦点を当てて考えていきたいと思います。

先に結論から言うと、僕が思う受験制度の最大の問題は、勉強が受験中心になってしまうことです。数日前の「大学入試は知識偏重か」という記事でも書いたように、子どもたちの学習というのは、受験の仕組みに大きく依存しています。受験がなくなればもっと伸び伸びと好きなことを学べる子どももいれば、受験がなければまったく勉強をしなくなる子どももおそらくいるでしょう。こう考えると、子どもたちの学習が受験に依存していることは、否定するべきものではないといえるかもしれません。

しかし、受験勉強という学習の仕方は、かなり受動的なものであり、生きていくための基礎を作るのにはやはり物足りません。どんな勉強においてもそうですが、たとえば数学のテストのために解き方を覚えても、解き方の基礎となる定理がなぜ成り立つのかを理解していなければ、それは数学がわかっているということではありません。本来、数学を学ぶ意義は、考える力を養うことだと思いますが、解法を覚えるだけではその力はあまり身に付きません。受験という仕組みがあることによって、勉強の目的が、数学を理解することよりも点をとることになっていくのです。

では、受験というものがなくなれば、子どもたちはより本質的な学びができるのかというと、反対に勉強しなくなる子どもが増えると思われます。「勉強はしたくないけど受験があるからしている」という子はとても多く、受験という目標に向かって勉強に励むことが、一つの美徳とみなされています。これでは、子どもたちが受験以外に勉強する理由を見つけられないとしても、しょうがないと言わざるを得ません。

そういうわけで、受験の仕組みを解体するならば、子どもたちにとって受験の代わりになる勉強のモチベーションが必要になってきます(そもそも勉強はするべきであるという前提での話ですが)。現状では、そのようなモチベーションはなかなかないでしょう。現に、学校を卒業した多くの大人があまり勉強していないということは、彼らにとって勉強は、やらなくてよいのではあればやらないものであるということを意味します。

ここまで考えると、受験の制度そのものをなくしたところで何も解決しないだろうということがわかります。これは制度に問題があるのではなく、根本的に人は何のために学ぶのかということを考えていないことに問題があります。この問いに対する考えを深めなければ、受験があろうがなかろうが、結局勉強はできればやりたくないものとして捉えられてしまうでしょう。以上、受験制度の弊害についてでした。

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