「プラスの叱り」を見直す

どうもシャオムです。

教育において重要なコミュニケーションの一つが「叱る」ことだと思うのですが、これはなかなか難しいことです。そもそも叱るためには相当な根拠が必要ですし、自分が相手にとっての模範的な存在でなければ効果はありません。相手が何か悪いことをしたときに叱るのは、大人としての大事な役割でもありますが、今回は、「プラスの叱り」について考えてみたいと思います。

まず、「プラスの叱り」とは何か。これは僕が今回の記事を書くにあたって勝手に呼んでいる名前なので、世の中には存在していません。冒頭述べたような、悪いことをした人や、何か問題を抱えている人に対する叱りを「マイナスの叱り」と定義します。これは、ネガティブな要素を取り除くための叱りという意味です。反対に、「プラスの叱り」とは何かというと、自ら相手にはたらきかけていって、相手がより成長できるようにとか、道を踏み外さないようになどという思いで叱ることです。

たとえば、友達を殴った生徒を指導するのは「マイナスの叱り」であり、生徒がもっと勉強を頑張れるように指導するのは「プラスの叱り」です。プラスの叱りは、叱りというより励ましに近いかもしれません。これでだいたいは理解していただけたと思います。

本題はここからなのですが、今の時代、プラスの叱りをできる人というのがなかなかいなくなっているのではないか、という話です。何か問題を起こした人に対しては、社会から厳しい目を向けられるのに比べ、何も問題のない人に「もっとこうしなさい」と言うのは難しくなってきています。以前からいろいろな記事で書いているように、現代とは「不干渉」の時代だなあと思います。とにかく人のことには口を出さない。他人に迷惑をかけないならあとはそれぞれの自由が守られるべき。これらのような考え方が、強く定着しています。僕はまだ20代ですが、普通に生きていて叱られるという場面がめったになくなってしまいました。これは、普通に企業で働いている同世代にも、ある程度当てはまるのではないかと思っています。

逆にいえば、人から言われなくても自分で自分を教育し、向上していける人が勝つ時代だといえます。しかし、社会全体で考えれば、新たな形でコミュニティというものを復興し、ある程度はお互いに「プラスの叱り」をし合えるような風土をつくらなければ、社会が停滞していくのではないでしょうか。以上、「プラスの叱り」についてでした。

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