学問をする「場所」について

どうもシャオムです。

先日、大学進学率の記事で、大卒の持つ経済的価値の変化について考えました。今回は、学びの内容という点で、今と昔では大学はどう違っているのかを考えてみたいと思います。

本来、大学や高校など、教育機関を卒業していることが何を意味したのかを考えてみましょう。もちろんそれは、今も昔も、学問を修めた者の称号としての価値があります。卒業したという事実が、この人は勉強した人であることを証明するといっても過言ではないでしょう。

しかし、今と昔(ざっくりとした表現ではありますが)で大きく変わっていることがあります。それは、知識の入手先が増えたことです。テクノロジーが今ほど発達していない時代には、学術的な知識を得られる場所は、ほとんど大学だけでした。独学で本を読んで学ぶのにも限界がありました。しかし今は、誰もが大学の講義と同等のクオリティの動画にアクセスすることができ、学ぶ気さえあれば知識を得ることができます。つまり、大学でなくても勉強はできるという環境が整っているのです。

そのせいもあって、「大学は就職のためのステップ」という考え方がますます強いという面もあろうかと思います。勉強が大学でなくてはいけない理由はなくなってきているというのは、事実でしょう。

では、知識があふれている一方で、私たちが学ぶうえで、世の中にまだまだ足りないものは何でしょうか。それは、学び方を教えてくれる人の存在です。たとえば、英語を勉強しようと思ったとき、英会話レッスンに行くこともできれば、動画を見て学習することもできます。しかし、自らの経験から英語習得の苦労を理解し相談に乗ってくれる人や、同じような立場で切磋琢磨しながら英語を勉強できる人とはなかなか出会えません。さらに本質的には、英語を学ぶ意義や英語力の活かし方など、それが人生にとってどんな価値があるのかという問題には、誰も答えてくれません。このような問題は、まさに大学のような、教授や他の学生がいる中で、触発され、思索し続けていかなければならないものです。ここにこそ、大学や学校の存在する意義がありますし、また本当の学問もあると思います。

今後、学校や大学の役割が変化するにともなって、学びの場も多様化し、同じ学問を探究する人たちが集うサロンのようなものも生まれてくるかもしれません。これだけ知識が簡単に得られるのですから、今まで大学でしかできなかったような「深い学問」、「本物の学問」が、あらゆる人に開かれていくべきです。一方で、学校や大学は、その本来の価値である、学問を深められる場所としての価値をこれからも持ち続けなくてはいけないと思います。そして、大学が社会の中で、学問を独占するのではなく、学問の発信所、学問のハブとして機能していくべきではないでしょうか。

 

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