速読と精読について

どうもシャオムです。

「速読法」が話題になることがときどきあります。その名の通り、本を速く読む能力ということですが、実際のところはそれほど重要なことなのでしょうか。速読に対して、本の内容をしっかり理解して読み進めることを精読といいます。今回は、速読と精読について少し考えます。

速読がどれくらいの速さのことを言うのかわかりませんが、僕はそれほど速く読むことはなく、それを意識したこともありません。そもそもなぜ人は速読に関心があるのかといえば、本を効率よく読むためだと思います。読書は重要だという前提があり、時間がない中でいかに多くの本を読み、知識を得るかに重きを置いている考え方といえます。

たしかに、この、速く知識を得るというのは重要です。時間がない中、資料の内容を頭に入れなければならないときもありますし、それができるに越したことはないでしょう。このような素早いインプットには、全体の要旨をざっくりと掴むための「スキミング」と、特定の情報を文章から拾い上げるための「スキャニング」があります。これらはスキルとして役に立つものであることは間違いないでしょう。

僕があまり速読に無頓着なのは、読書に対する考え方の問題かもしれません。読書にはいろいろな意義があると思いますが、大きく分けると、①情報収集・インプット、②娯楽、③学び・思索になるのではないでしょうか。僕の中では、①の情報収集と③の学び・思索は別のものであり、これが速読に対する考え方にもつながっていると思われます。僕はあまり情報収集のための読書というのをしません。世の中には情報が多すぎて切りがないと思ってしまい、いろいろなことに興味を持って本にあたるのは苦手です。また、どうしても調べなければならないことはネット上で調べます。それに対して、学びのための読書、思索のための読書は絶えずおこなっています。本を読んで考えたことは、このブログにも反映されています。読む本は、文学もあれば、学問系の新書もあれば、ちゃんと勉強しようと意気込んでいるときなら『漱石文明論集』のような、いわゆる古典や原典といわれる本のときもあります。これらはすべて考える材料になります。僕がこれらの本を読むときは、どちらかといえば精読なのかもしれません。

速読と精読は、いわゆるどちらが良いかという問題ではないと思います。両者はおそらく目的が違うものです。速く情報を入手しなければいけないときもあれば、じっくり読んで理解し考えなければならないときもあります。それぞれの能力をのばし、自分に必要な読書の力を身につけていくべきではないでしょうか。

 

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