孫文は何をしたか【後編】
どうもシャオムです。
2日あいてしまいましたが、孫文についての後編をやっていきます。前編はリンクからどうぞ。
前回は孫文について概要をさらいましたが、今回はその知識を通して思考をめぐらしたいと思います。
1.孫文に見る西欧帝国主義の結末
前回触れた通り、孫文の志は「強い中華の復興」にあったといってよいでしょう。迫りくる欧米列強に対抗できる国家を樹立し、他民族に支配されない中国の繁栄を目指していたと思います。たとえば、孫文は日本人の革命協力者にも、日本と中国が協力することが東アジアの繁栄に欠かせないと説いていたといいます。欧米列強の重要人物らとも接触し、革命の必要性を説き、国際社会で対等に渡り合おうと試みたのでした。ここからも孫文の中華復興への強い思いが読み取れます。
その後、日本と中国は国際社会で、一応独立した国家としての地位を築いていきます(中国はいろいろありましたが最後は戦勝国になりますね)。帝国主義の震源地ヨーロッパ、それに巻き込まれたアフリカ・南アメリカ、独自の国家建設で対抗したアメリカ・日本・中国という構図が見えてきます。
2.東西への分かれ道
辛亥革命後の中国はどうなったのでしょうか。
孫文は辛亥革命後まもなく、孫文に代わり臨時大総統となった袁世凱が独裁体制を敷き、民主化の理想は打ち砕かれます。袁世凱の死後、孫文の意志を継いだ蒋介石の国民党は、毛沢東らの中国共産党と協力し(第一次国共合作)、政権を樹立します。
このとき国民党が共産主義を受け入れたことと、前回書いた孫文の共産主義的思想(土地の国有化)には関係があるはずです。
しかし、その後両者は対立するようになり、中国は日中戦争へ突入します。大戦後、連合国側についていた国民党は戦勝国としての地位を確立しますが、その後再び共産党との対立が深まります。1949年に蒋介石の国民党は敗れ、台湾に逃れます。これが今の台湾、そして勝った共産党が建てたのが中華人民共和国ということになります。
中華人民共和国は1950年の朝鮮戦争で北朝鮮を支援し、東側陣営に入ります。その後ソ連とは対立しますが北朝鮮との間では軍事同盟が結ばれます。
このように見ると孫文の時代にはすでに、中国が共産党独裁に進む因があったといえるのではないでしょうか。
3.民主主義の難しさ
最後に、孫文の三段階革命論に再び触れておきます。孫文は民主革命の方法として、軍による一時的な独裁を説きました。しかしこれは、民主主義の実現のために独裁を経なければならないという矛盾をはらんでいます。
一方、民主主義国であるといわれる多くの先進国では、実際に民主主義が行われているのでしょうか。定義では、民主主義の国とは、国民主権であるということであるはずです。しかし、真の意味で何が民主主義であるかは、もっと議論が必要です。
孫文は、民主主義の難しさについても考えさせてくれるということですね。
論点が散らかってしまいましたが、いかがだったでしょうか。歴史については通説というものがあるので、改めて記述するのは難しいですね。歴史を書く人を心から尊敬します。
また何かの歴史回でお会いしましょう。